Shoot for the moon.

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学部生活前半の思い出

 かすとるです。

 私事ですが、先日、2年生として受ける最後の試験が終わりました。レポートその他は特にないので、これで春休みです。来年度からは自分の所属もキャンパスも変わるので、これで学部生活に1つの大きな区切りがついた感じですね。やれやれ…。

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試験最終日の夜。揚げ物ってなんで美味しいんだろうね。(この後腹痛になりながら終電で帰った)

 うちの大学は、初めの2年間は所謂教養課程で、いろんな授業を受けさせられます。文系理系には分かれていますが、理系でも語学や人文科学系の授業で単位をとることが課せられていますし、文系の方でも理科系の講義を受ける必要があります。半強制的ではありますが、こうして色んな分野の授業を受けることになります。それが面白いかどうかは人によりけりですが、僕個人としては割と楽しかったです。

 というわけで、学部生活前半を振り返るには良い時期でもあるので、ここ2年で受けた講義の中でも、特に印象に残ったものについて少し書いてみたいと思います。地学が好きな自分からすると、地球惑星科学とか宇宙科学みたいな講義は、面白いし印象に残るのも当たり前なので、それ以外で面白かった授業に絞ってみます。

※もしかしたら学問的に間違ったことを書いている可能性があるので、何かの参考にしたりはしないでください。間違いを見つけたら指摘していただければ助かります。

それでは1つ目です。

 

 

 

西洋思想史

 西洋思想史という講義題目ですが、教官は学期や年度によって異なり、つまり内容も毎回変わります。当時は1年生の秋でしたが、この時の内容は、プラトン哲学について彼の対話編である『パイドン』と『弁明』を読みつつ学んでいくというものでした。

 プラトン哲学については、高校では倫理の授業で触れると思います。有名なものでいえば、イデア論や魂の配慮でしょうか。授業でそれっぽく説明されますが、あまり実感が湧かないというのが正直なところではないでしょうか。僕は実際そうだったと思います。今思えば、それは彼の著作を真面目に読んでいなかったからではないかと思います。大昔の哲学者の思想は、その著作にしか残されていません。人は、究極的にはその著作からではないと彼の思想は理解できないわけですから。この授業は、そういう哲学書から思想を掴み取る機会を与えてくれました。さらに、プラトン哲学者の第1人者とも言えるような先生に直接話を伺えたというのも、印象に残った点でもあります(ミーハーなので…)。

 この授業にのめり込めた点はもう一つあります。それはプラトンの対話篇が純粋に面白いという点です。哲学書といえばいわゆる論文調のものが多いですよね。私はまだ数冊しか読んだことありませんが、その中の1つ、『方法序説』なんかは正にそうだと思います。「私は如何にしてこの思想に至ったか」について延々と語られるわけです。さらに極端な話、ウィトゲンシュタインの『論考』では条文のように思想が展開され、彼の言語の宇宙が創られていくわけですよね(まだ完走できていないのでエアプですが…)。

 一方、プラトンの対話篇は、一見ただの物語なわけです。特に、『弁明』では、ソクラテスが神に対する不敬の罪で裁判にかけられ、その裁判の様子が語られます。そんなの物語じゃん!?と思うわけですが、ソクラテスとの対話の中に、プラトンの重要な思想が含まれているのです。ここには、重要なことが語られていても深く考えずに先へ進んでしまうという、物語調で読みやすいがための落とし穴があるわけですが、私のような素人からすると、この「読みやすさ」こそが大きい点でした。読んでいても、そこまで大きな苦痛を感じないというのは、専門ではない人間からすると重要だと思います。書店の店頭によく「マンガで学ぶ!」的な本が並んでいますが、感覚は何となくそれに近いです。とっつきやすい。勿論、プラトンが対話篇を書いた理由はそこではないと思いますが、結果的に、僕にとってはありがたかったですね。

 授業では、魂の配慮やイデア論について主に学びました。私にはその詳しい内容を説明する資格はないのでするつもりはありません。ですので少しだけ触れることにします。プラトンが対話篇で伝えようとする「魂の配慮」とはこんな感じだったと思います。人間は肉体と魂が結合することによって生きています。普通の人間は食欲や金に囚われて生きています(それは普段の私たちの生活を振り返れば分かると思います)が、それらは全て、肉体への配慮に当たるでしょう。しかし、肉体はすぐにボロボロになり朽ちていくものです。一方で、魂とは、いわば「私自身」と言えるもので、肉体とは別次元のものです(これはイデア論とも直接結びつきます)。そこで、魂がより善くあるようにしていくためには、この肉体と切り離し、魂がそれ自体としてあれば良いということになります。肉体ではなく、魂に配慮の先を向ける。そして、哲学を行うということは、魂の配慮を行うことになる。

 この話を聞くと、「そんなの無理じゃん!」という感じがしてしまうわけです。特に僕なんかはこの記事の最初で上げたようなもんを食ったり、音ゲーに勤しんだりしているわけですよ。魂への配慮なんか全くしていないわけですよ。それでも、時に人は善くありたいと思うことがあるわけですよね。それはずっと前のプラトンの時代でも同じなんですよね。ずっと昔から、人は物欲に飢えて生きている。そして、生きるのは難しい。だからこそこのような思想が生まれるんですかね。そう思うと、彼の思想は今でも通じるところがあるように感じます。

 イデアについて全然書いてませんし、まだまだ書き足りないですが、文がまとまらないのでとりあえずプラトンについてはこの辺で…。

 では2つ目です。

 

 

解析力学

 ここ2年で、教養と専門で2回解析力学の授業を受けましたが、印象に残ったのは教養の解析力学の方です。初めて解析力学に触れたのが教養の時だったからかもしれませんが…。

 1年の春学期に、所謂古典力学の授業を受けたわけですが、その時の成績が割と良かったからか調子に乗ってたんですよね。その時に秋学期のシラバスに見慣れない「解析力学」の題目を見つけるわけです。「解析って何を解析するんや!」と当時の僕は思ったわけですが、調子に乗ってた僕は、よく分からないけどとりあえず受けてみようかなと。友人の誘いも受けたこともあって、初回の授業を聴きに行ってみました。

 すると教室に入ってきたのは、とてつもなく癖の強い先生だったんですよね。まず、見た目からアインシュタインっぽさが漂ってる。なんか顔色が悪そう。今時では珍しく授業中のスマホは使用禁止。そして、周りを見渡してみると賢そうな男性ばっかり…。魔境に来てしまったかなぁという感じがしてしまいました。

 しかし、授業が始まると、これが面白い。解析力学全くの未修で、ラグランジアンって何?」な状態でしたが、だからか内容がとても新鮮で面白い。そしてそれ以上に、先生の説明があまりにもわかりやすい。初回の授業が終わってからは、週1回のその授業が楽しみで仕方なくなりました。

 ここで、解析力学について少しだけ。解析力学のテーマは保存量だと僕は理解しています。ラグランジアンハミルトニアンを定義し、それらに関して成り立つ方程式(オイラー-ラグランジュ方程式、正準運動方程式)が、原理を元にして数学的に導けます。あとは、ラグランジアンハミルトニアンに個別の物理的な現象を当てはめていけば、先ほどの方程式により、運動が数学的に導くことが出来るようになります。更に、そのラグランジアンハミルトニアンから、保存量が直ちに見つかります。それも数学的に。運動を調べる上で、エネルギーや運動量、角運動量などの保存量は非常に重要なのは、大学受験の物理をやったことがある方は分かると思いますが、それを解析的に解くことが出来てしまいます。

  授業を追うごとに、今まで自分が知っていた古典力学が、次々と再構築されていきます。そして、個別の事象を離れて、物理量はどんどん一般化されていき、変数も増え、多次元の位相空間なども出てきます。それら全てが自分にとって真新しくて、新しい世界が開けたような感動を覚えました。

  そして、解析力学の終盤では、ハミルトン‐ヤコビ方程式というものが出てきます。これを使うと様々な保存量を作ることが出来る(はず)点で、難しい問題を解く際には有用なそうですが、それ以外にもこの方程式には大きな役割があります。それは、量子力学に最も近いといえる方程式だということです。詳しいことはここでは述べませんが、ハミルトン‐ヤコビ方程式を用いることで、あのシュレーディンガー方程式に限りなく近い式が出てきます。しかし、その方程式は線型ではありません。そこで、その非線形になっている部分を無理やり線型な形にします。そうすると、シュレーディンガー方程式に辿り着く。その変形こそが、古典力学から量子力学への飛躍になっている。この話を聴いたときは圧倒されてしまいました。古典力学の限界、そして量子力学の始まり。その瞬間を目撃してしまったのですから。

 こんなわけで、この授業に私は魅せられてしまいました。そしてその飛躍まで導いてくれた先生のファンになってしまいましたね。2年生の春学期が始まると、今度は同じ先生の相対論の授業があったので迷わず履修しました。こちらも楽しかったですよ。大学がつまらないと感じる方もいらっしゃると思いますが、こういうお気に入りの教官が見つかったり、新たな発見が出来るような機会があれば、淡々と単位を回収するだけだった大学生活が少しだけ楽しくなるのではないでしょうか。どうか素敵な出会いがありますように…。

 

 

 

 思わず長々と書いてしまいましたが、とりあえずこの辺で。読んでくださった方、ありがとうございます。それではまたいつか。