Shoot for the moon.

Even if you miss, you'll land among the stars.

幼い日に抱いた死の恐怖と克服への一歩

 かすとるです。

 今回は少し重い話をしようと思います。唐突ですが、小学生の頃のある日、私は、突然死の恐怖を感じることになります。誰にでもある経験ではあるかと思いますが、当時の私にはあまりにも理不尽でどうしようもない恐ろしさを感じたものです。初めてその恐怖を感じてから10年ほど経過したわけですが、慣れることはなく、今でも時々その恐怖は襲ってきます。

 人間に関わらず、この世に生を受けたものはいつか必ず死んでしまいます。死とは避けることの出来ない運命です。古くから、人々はその運命に抗おうと努力してきました。その代表的なものとして挙げられるのは、宗教です。宗教学者ではないので詳しいことには触れることは出来ませんが、キリスト教や仏教には、死と密接に関わる教え等が多く見受けられます。それは、人々が死やその恐怖と真剣に向き合ってきた証拠でしょう。

 私は無宗教の人間なので、ここでは宗教っぽいことを話すつもりはありません。しかし、僕は僕なりに死の恐怖を少しでも克服したいと思ってここ10年を過ごしてきました。そこで、今現在、たった21年しか生きていない分際ですが、私なりにその奮闘の軌跡を残してみたいと思います。

 

*このような内容が苦手な方は、閲覧をご遠慮ください。

*あくまでも個人の意見です。どのように感じるかは人それぞれです。自己責任でお願いします。

 

 

 

 私が初めて死について考えたのは、おそらく小学生の頃だったと思います。幸いにして近い親戚の方はまだ亡くなっていません。では何がきっかけだったかというと、一冊の絵本です。今では読書量はガクッと減ってしまいましたが、当時はよく絵本を読んだものでした。その時、私は次の絵本を手にします。ジャクリーンウィルソン氏の『わたしのねこメイベル』という本です。物語の概要はamazonのページから確認してみて下さい。

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%8F%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%AE%E3%81%AD%E3%81%93%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%AB-%E3%81%8A%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%97%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%88-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3-%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3/dp/4338170158

 この本のテーマの1つに、死生観があります。古代エジプトの死生観を題材とし、ミイラについて、そして死んだ後には何が待っているのかなどについて考えさせられます。そこで、当時小学生だった僕は、死後について真剣に考えることになります。当時考えたことを、今の僕なりに再構築してみます。

 

 死ぬということは、生命活動が終了すること。それは、今生きている自分が当たり前のようにやっていることが出来なくなることを示唆する。普段、たとえ意識していなくとも、自分は何かを考えたり、感じ取ったりしている。何も考えていないときでさえ、目を通じて空間的な情報や明暗の程度を認知し、肌を通じて周囲の空気を感じ取っている。しかし、自分に死が訪れたらどうだろうか。自分は何かを考えることはできない。視覚や触覚といった五感は失われる。それだけではない。時には喜んだり、時には悲しい思いをしたりといった、感情の喪失。気持ちいい、苦しいといった、精神的な反応の欠如。自分の周りに広がっていたはずの空間、流れていたはずの時間。そんな時空の存在を捉える感覚すら遠くなり、消えていく。すなわち、文字通り、何も感じることができなくなってしまう。どうにかして感覚を取り戻したい。しかし、どうすることも出来ない。「どうすることも出来ない」という感覚さえも失われてしまう。真の「無」が訪れる。それがすなわち、「死ぬ」ということではないか。さらに、私が死んでも、世界は続いていく。宇宙はそこにあり続け、膨張し続ける。私なんて初めから生まれてすらいなかったかのように、ひたすら膨張を続ける。宇宙がこのまま存在するとしても、無くなってしまうとしても、私は永遠に真の「無」のままであり続ける。

 

その絵本を読んだ当時から発展しているとは思いますが、当時の僕はこのようなことを考えたわけです。とにかく、真の「無」が訪れることが恐ろしくてたまりませんでした。読み終わった後はひたすら泣き続け、母親にしがみついたものです。そしてこの温もりもいつかは感じることも思い出すことも出来なくなってしまうのかと…。

その日から、私は物思いに更けていると、時々自分の死について考えることになります。しかし、やがてその瞬間は必ず訪れるのかと思うと、全身が凍り付くような感覚に襲われ、夜中に布団にくるまって大声で叫んだり、シャワーを浴びながら呆然と立ち尽くしたりしてしまうようになります。その時は何とかして別のことを無理やり考えてなんとかやり過ごしたものです(当時好きだったクラスの女の子のことや、ハマっていたゲームのことを考えていた覚えがあります)。が、根本的な解決にはなりません。

そのような断続的に続く恐怖からの克服につながるきっかけが訪れたのは、それから5年以上後、中学3年生の頃です。

 

 

 

 当時の私の周りには、いわゆるオタクの人が多く、いろんなアニメやゲームをお勧めされていました。まだまだ若く、新しいコンテンツに貪欲だった私は、ライトノベルやアニメに夢中になっていました。ちなみに初めて私が出会ったサブカルチャー的な作品は、あらゐけいいち先生の『日常』だったと思います。独特でシュールな展開に夢中になったものですし、完結したときはかなりショックでした。どうでもいいですが、麻衣ちゃん推しです。

 さて、そんな中高生活を送っていた時期に、私は一つの作品と出会います。『リトルバスターズ!』という作品です。当時の僕が入っていた部活の先輩がお薦めしてくれたのが、出会いのきっかけでした。物語の冒頭は次のURL先にある公式サイトからご確認下さい。(わざと原作ゲームではなくアニメ版の方を貼っています。)

http://www.litbus-anime.com/lb/intro/index.html

 ネタバレにならない程度に少しだけ補足しますと、主人公の直枝理樹は、「リトルバスターズ」の活動を通して、ある少女達と出会うことになります。彼女達は、実は一人一人が人生における深刻な「問題」を抱えて生きています。そんな彼女らは、直枝理樹ら「リトルバスターズ」と出会い、仲を深めていくうちに、ある変化が彼女らの中で生じていきます。彼女達の運命はどう変わっていくのか。そして、「リトルバスターズ」が行き着く先はどこなのか。そんな話です(伝わったかな?)。

 そんな物語の中で、私が非常に影響を受けた場面があります。ネタバレは極力したくないので、どの場面か、誰にまつわるシーンかは伏せますが、(Aさんとでもしておきましょう)こんな場面です。

 Aさんは、大切な人を失ってしまったショックから、こう考えていました。生まれてくること自体が苦しいことなのだと。しかし、今までの自分の人生を振り返る中で、たくさんの人と出会い、温かい思い出の数々を作ってきたことを知ります。そして、こう語ります。

 「ああ…そうか…。それは…ぼくが…、失うことより、出会うことの方が大切だと、知ったからだ。失えば悲しい、辛い。でも、それを恐れて、出会わないより、人と出会い、一緒に過ごす時間の方が、大切で、かけがえのないものだってことを知っている。」(Key (2007) 『リトルバスターズ!』 Visual Arts)

 ここで、自分はハッとします。今まで、自分は、自分が死んでしまった時のことばかりを考えていました。死んでしまったら、全てを失う。何も感じ取れなくなる。しかし、自分はその前のこと、つまり、自分が生きている間のことを全く考えていませんでした。確かに、失うことは恐ろしいことです。それは、今までの経験で十分身に染みています。それなら、失うことの悲しみや苦しみなんかを上回るような人生を送りたい。必ずしも、人との出会いでなくてもいい。自分の共感できる物語、出来事でもいい。今の自分の境遇が辛いものでも、それまでに何か温かい思い出があれば、それを大切にしたいし、これから良い出会いや思い出をつくれるようなきっかけを探して努力したい。そうすれば、いつかやってくる自分の死を恐れる気持ちも少しは和らぐし、そうやって生きることで、自らの命を絶とうという衝動にもブレーキをかけたい。将来、身内の方が亡くなってしまった時も、悲しみに飲まれ過ぎず、強く生きていきたい。そして、最期の時がやってきたら、自分の人生に納得できるようになりたい。

 このように考えるようになってから、以前のように、死について考え恐ろしさに飲み込まれてしまうようなことは格段に少なくなりました。逆に、辛いことがあっても、なんとか立ち直ろうという気持ちを自分で持てるようになってきたような気がします。

 また、これは偶然の発見なのですが、この文章を書いているうちにも、死への恐怖感が薄らいでいったような気もします。おそらく、今まで頭の中でぼんやりと浮かんでいた死へのイメージ。それを言葉にしたことで、漠然とした恐怖感とそれに怯える自分を、客観的に見つめ直し、自分の気持ちや考えを整理出来、その恐怖感を冷静に分析することが出来たからではないかと思います。何かに悩み、時に絶望してしま際には、何とか自分の言葉で今の状況を整理してみることは、かなり有効な手段なのではないかと思います。(気になって少し調べてみたところ、「感情のラベリング」と呼ばれるカウンセリング手法だそうで、臨床心理学でも研究がなされているようです。間違っていたらごめんなさい。)

 

 

 

 最後に、今自分が読んでいる本で見かけた面白い一説をご紹介します。

 「人間を近似的に粒子と見なすと、その生涯も、誕生で始まり死で終わる世界線で表される。」(吉田伸夫 (2013) 『明解 量子宇宙論入門』講談社 p12)

 これは、相対性理論の解説中に出てきた一説です。詳しい解説は省略しますが、高校や大学1年生で学ぶような所謂力学は、古典的なもので、空間と時間は別々に切り離して考えていました。相対性理論では、空間と時間は同等のものとして扱います。その際、時間と空間の情報を一つの図にまとめた、時空図というものをしばしば使います。時空図上では、粒子は分岐したり自身と交わったりすることのないただ1つの軌跡を描きます。それが世界線です。

 皆さんは、この一文を読んでどのように思うでしょうか。138億年もの間、拡大を続けてきた宇宙。そんな宇宙の時空図からしたら、高々100年しか生きられない人間の生涯なんて1本の短い線に過ぎない。そう思うかもしれません(そして、大胆な近似が出来てしまう物理学のある意味での恐ろしさも感じられます)。しかし、逆に考えてみることも出来ます。たかが1本の線でしかない自身の生涯には、1本の線ではとても表現することの出来ない、出会いや出来事、思い出が含まれ得る。そんな人生を目指して生きていくのも、アリなんじゃないかと、思います。

 それでは、今回はこの辺で。またいつか。

 

引用元

Key (2007) 『リトルバスターズ!』Visual Arts

吉田伸夫 (2013) 『明解 量子宇宙論入門』講談社